● 邪魅の雫



 京極夏彦・百鬼夜行シリーズ第九弾。事件の入り口となるのは探偵・榎木津礼二郎の素性を知る者なら誰もが驚くであろう、我が道を行く孤高の男には全く不似合いな“縁談話”であった。しかしその影には連続殺人事件。潜むのは大きな陰謀か、小さな邪心か。

 シリーズ特有のカットオフで違う人物の違う“物語”が平行して進むのだが、物語に共通項があり、それぞれに不思議な既知感覚を生む。隠遁生活をする女性。付きまといをする不審者。密かに安否を想う男。それでもそれは「まったく違う人物の、まったく異なる物語」にすぎないのだが。すべてを見る読み手は、これらに“接点”を感じ取り繋がりを知る。しかし接点にこそ矛盾があり、スッキリとは繋げることが出来ない。すべてを見ている筈なのに、真実が見えない。流石に翻弄される。

 彼らの物語の“外”、つまり世間に露呈する事実は“殺人”。いくつかの殺人を“連続殺人事件”として、なんとか繋げようと奮闘するのは警察。今回の主役は刑事達だ。シリーズはいつも小説家・関口を中心とした、“警察の外”の人間が主たる視点を持つ“探偵モノ”であった。刑事が邪魔者であったり、悪役?であったり。対して今回は、言わば“刑事ドラマ”なのだ。

 シリーズで登場した刑事達が総出演。まさに役者が揃っている。中でも僕のお気に入りは国家警察神奈川県本部の警部補・山下です。山下は「鉄鼠の檻」で登場した人物で、登場当初は頭の固い“如何にも”な、やられ役の刑事だった。けれど、不可解な事件と非常識な容疑者達に常識を破壊され、それでも職務を全うしようとする中、事件が終わる頃には見事、一皮剥けます。寺の事件でまさに“悟って”しまったかの様で、とても良い“警察官”になった男。沢山の刑事が登場する今回、その中でも光ります。視野が広く冷静、且つ現実的で、謙虚だけど芯はある、という理想の刑事像を見せている。

 主人公に値するのはその元部下であり元刑事、探偵見習いの益田。“卑怯者”を自称する益田の内心は、正反対に真面目で繊細だ。警察組織と自分の感覚に齟齬を感じてドロップアウトした彼だが、探偵という生き方にも決して納得はしていなかった。“卑怯”はそんな彼の“生き方の言い訳”であったのだろうが、探偵という異なる立場で再び警察にどっぷり関わったこの事件を経て、彼は自分自身の“役割”のなんたるかを知り、変化を遂げる。

 益田の相棒の位置で関口が登場するのも面白い。いつも主観で語られている関口が、終始、益田視点の第三者として語られる。挙動不審で病的な性格は変わらないのだが、いつのまにやら豊富になった経験と、否応なしに備わった達観がどこか頼もしい。益田の一歩先を行く場面もあったりする。


 テーマは毒、毒殺である。今回は、その毒にまつわる戦後の事件・疑惑を取り込んだフィクション・サスペンスの側面も見せる。戦時に存在した、石井部隊と呼ばれる防疫給水部隊の生物兵器開発や人体実験の疑惑。そして帝銀事件。
 帝銀事件とは、三井住友銀行の源流、“帝国銀行”の、椎名町にあった支店で起きた謎の“集団服毒事件”である。三億円事件やグリコ・森永事件のような、世間を大いに騒がせた未解決事件。「陰摩羅鬼の瑕」で登場人物として友情出演?した小説家・横溝正史の金田一シリーズ「悪魔が来りて笛を吹く」内でもモデルとした事件が登場します。

 雫ひとつで死をもたらす、猛毒を弄ぶかのような怪異。確かに感じるその気配。そして明らかになればなるほど無関係と思われる連続殺人事件にも、“元凶となる人物”はいたのだ。その人物は、混迷する事件の真相解明と共に、拝み屋・京極堂の手により明らかとなる。まさに貫禄の“憑き物落とし”。


 刑事達が総出演する一方で、今回は常連の刑事・木場の登場が控えられている。彼は性格上、外の人間に属するのかもしれないが、趣向をはっきりと変える意味もあろう。替わりに元部下・青木が大活躍する。今回の青木は、切れ者って感じで(ほぼ京極堂のお陰だけれど)恰好良い。
 探偵モノから刑事ドラマに。主役から名脇役へと変わった関口巽。意識的に趣向が色々と変えられている今作。長いシリーズで一風変わった位置の作品になるのかもしれない。“定番”となるこれまでのシリーズの趣があるからこそ、見出せる面白さ、価値。そしてなにより、忘れちゃいけないのは榎木津礼二郎。今回の榎木津は随分とハードボイルドです。こんなに渋い榎木津は見たことがない。これもまた、定番の先にある価値のひとつとなっているのでしょう。

 原点回帰色の強い前作「陰摩羅鬼の瑕」とは対照的な変化球。ボリュームもちょうど良く読み応えがあります。


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